イナセナナナメヨミ。

毎日の生活でふと思い浮かんだことを書き綴るものです。徒然草を100倍希釈したものだと思っていただければ。

満員電車でハラキリを。

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東京の通勤風景は今日も変わらず、来る電車来る電車に、大量の人が詰め込まれている。


そんな満員電車に時折、誰も座らない不思議な空間が現れる。乗り込む時には、人を押しのけてでも確保せんとするその場所が、今目の前で空いているというのに。


車内の限られたスペースは有効活用すべきだし、誰かが、ひいては自分が座りたい、何度そう思ったことか。でも、我先に動くのは何故だか少し気がひけ、それは周囲の人たちも同じで、互いを牽制しているように感じる。


誰もが空席を認識をしているのに、座らない。あのもどかしさはなぜ生まれるのだろう。それはちょうど、小学生の頃に、黒板の誤字に気づき、生徒の誰もが先生に指摘するかヤキモキする、あの感じに似ている。


通勤電車では、乗車と座席争奪戦が一連の形式美であるかのように、すし詰め状態を崩すことに人々は抵抗を見せる。


自分の領地を奪取できなかった哀れな立ち人は、電車に、いや戦に乗り込んだ瞬間から負け組となる。電車に乗り込むタイミングで席を得られなければ、座席争奪戦への参加権すら失われてしまう。


さすがは侍の国。かつて切腹が文化として根付いていただけはある。江戸時代には、切腹がトレンド入りしていたそうだ。#切腹、が最後の投稿となる侍が後をたたなかった。#写真好きの人と繋がりたい、なんて悠長なことを抜かしている場合ではない。恐ろしい流行である。


ともあれ、満員電車において立ち続けることは切腹と同じなのではないだろうか。途中で空いた席にはおいそれと座らない。負け戦におめおめと同情は受けない。自分が犯した失態は甘んじて受け入れる。そこで座ってしまっては、矜持を捨て、自らを辱めるのと同じだ。


たとえ座れずとも、最後まで人としてありたい。満員電車が運んでいるのは、そんな尊く何ものにも変えがたい想いだ。今日も東京の、日本の通勤電車では、自らの尊厳のために戦う人で溢れている。