イナセナナナメヨミ。

毎日の生活でふと思い浮かんだことを書き綴るものです。徒然草を100倍希釈したものだと思っていただければ。

後出しジャンケンを成功させよう。

誰かに見られていると思って目を向けたら、逆に先手を取ってしまい、こちらが見つめていたかのような状況になってしまった、なんて経験はないだろうか。自意識過剰なあまり、ありもしない誰かの視線を感じているだけかもしれないが。

 


視線や眼差しとは面白いもので、人間関係によって意味合いが変わる。恋人から見つめられるのと、赤の他人から見つめられるのとでは緊張感も違う。いつだったか、中年男性が女児に挨拶をしたら通報された、という珍事を報道していた。視姦という言葉もある程、過剰な人は、性的な目で見ていたとセクハラをも訴えうる。

 


視線とは気づくものだ。物理的な接触が無いのに。見られている感覚は、誰かがいるという感覚、気配とは少し違う。刺すような視線ともいう。歌舞伎の見得もその眼差しにこそ迫力がやどる。目は口ほどに物を言う。たしかに。眼差しはコミュニケーションだ。

 


電車などの公共空間で乱痴気騒ぎをしないのも、自制心があるとか、良識がある、なんてことでなく、他人の目があるからだ。自分を律するのは常に他者の眼差しの存在のためと言っていい。

 


それは車内以外でもそうで、例えば恵比寿や表参道、中目黒なんかは眼差しの町だ。皆、誰かに見られることを前提に訪れる。デジタルの世界でも私たちは他人の視線を逃れられない。イイネやシェアがその最たるものだが。

 


電車の窓越しに隣の人を見ると、見つめ返されることがある。視線は直線的であると同時に、鏡に反射することが分かる。真っ直ぐ前を向いている時、自分より後ろの人が自分の視線を感じることはない。

 

 

もし視線の向かう先を任意で変えられたら、少し面白い。鬼滅の刃に、ちょうどそんな敵がいた気がするが、うねうねと視線が旋回するのだ。その挙句、例えば教室で、意中の相手へ辿り着いたりする。これなら自分が実際にどこを見ているのか分からないので、視線の所在を悟られない。堂々と目の前の人を見つめていたとしても、その視線が目の前の人物のものと断定出来ない以上、変な目で見ることはできない。

 

 

私たちはいま見られる、ということに過剰になっている気もする。なんてことはない、自分が人のことをそこまで見てもいないのに、である。たとえば今日街ですれ違った彼。喫茶店で隣に座っていた彼女。如何程にその仕草や振る舞いを覚えているだろう。案外そんなものだ。

 

 

誰かの目を気にしなければ、人は変化の動機を失うかのように。見る-見られるという関係は、主体と客体の関係を生む装置のように。他者の視線ならまだしも、果ては自分の眼差しに殺されかねない。ナルキッソスが湖面に映る自分の姿に惚れたように。

 


たとえ誰かの視線を感じようと、なんだか今美女に見つめられている気がするなぁ、くらいで留めておけば充分愉快ではないか。