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それでも共有したい私

昨今「シェア」という文化の広まりがめざましい。車や自転車といった移動手段に顕著だが、近頃はオフィスや店舗もシェアされる。


その漠然とした響きも、ポジティブな広がりに一役買っている。気になるあの子が手渡してきたペットボトルに口をつける。間接キス、だと多少なりいやらしい感じもするが、シェアといえば、爽やかさすら感じる(ほんとか?)。


個性や多様性といった「個人」がこれだけもてはやされている時代に、「他人」が強く前に出るシェアが広まっていくのは不思議な感じもする。


さて、シェアが進むことで、私たちの生活空間はどんどんパブリックなものになっていく。かのマリーアントワネットには、プライベートがほとんどなく、初夜や出産を大勢の貴族に見守られていたらしい。一体どんなプレイだ。


食べログなどのネット上の口コミ然り、シェアの魔の手が伸びることで一個人の意見が計り知れない影響力を帯びてくる。かつてポップアーティストが警鐘を鳴らした複製技術時代の危うさが、物資を超え私たちの内面の均質化をも加速させる。


だが、思えば私たちはシェア以外の方法で何かを行なっていることが極めて少ないことにも気づく。先人たちの知恵を参照し、周囲の人たちの言葉に耳を傾け、好みの情報をたぐり、自分という思考体系ができていく。そうして出来上がったものは、自分の頭で考えている、とどこまで言えるだろう。思考する、という行為も実は様々な事柄のシェアから誕生している行いだった。さながら現代の様相を鑑みるに「我共有す、故に我あり」と言ったところか。


幸か不幸か、日本は一夫一妻制度を(表向きには)採用しており、一応それに基づいて私たちの貞操観念は創られていることになっている。時事的な問題に立ち入るつもりは毛頭ないが、浮気や二股もシェアと考えてみてはいかがだろう。


逃げ恥では、新垣結衣星野源から、自分ともう1人の男の間で主婦業のシェアを提案されるシーンがあった。飲み物や、食事は量的に測れ、車や自転車も機能を等しく享受できるが、シェアされる対象に主体性がある場合、成立は難しそうだが。


ともあれ現在進行形で世界はどんどんシェアに侵されていく。次にシェアの標的とされるのは一体何なのか。

私個人としては「仕事」がシェアされることを祈る。仕事は「労働力」と「報酬」で成り立つわけだが、私が「報酬」部分をもらうので、誰か「労働」部分をシェアしてくれないだろうか。