とってもおもしろいぶろぐ。

とってもおもしろくなる予定です。

ならいっそ全裸の料理を。

f:id:tsabolibi:20190304100133j:plainどんなに美味い料理でも、乱雑に盛られては美味そうに見えない。でもたまに、この盛り付けは正しいのか?と思うこともある。どでかい皿の隅っこにちょこんと載った食材はどことなく居心地が悪そうに見えてしまう。電車に乗る時、真ん中でなく何となく端っこの席に座ってしまう私だが、一体誰に気を使ってるんだ?という感覚になる。それに近い。


「食器は料理のきもの」かの北大路魯山人がこう考えたのは、美味しい料理を食べるため、これに尽きる。「食は見た目から」と言うように、切っても切れないのが、料理と食器の関係である。自分を良く見せるために衣服をまとうのは、人間だけではないようだ。


似合う服、似合わない服があるように、料理にも似合う皿、似合わない皿がある。高級料亭へ行き、料理が全てIKEAの皿で出てきたら、いくら北欧好きのおしゃれガールでも興ざめというものだ。


もちろん料理の美味しさを決めるのは見た目以外にもいくつかある。やはりラーメンなどはズズズッと頬張りたい。音を立てないよう静かに食べたのではせっかくのラーメンが台無しである。だが近頃は、身体感覚の中でも視覚への権威づけが著しい。


最近では、出てきた料理に、箸ではなくスマホを向ける人が本当に多くなった。女性嗜好のお店であればなおさらだ。彼女たちは食事はもちろんだが、撮影目的で来店しているといっても過言ではない。むしろ写真だけとれれば満腹になるのではないか。さすがにそれは過言か。何にせよ、食事を収めるのがお腹の中とスマホの中になったのは現代の特徴である。


被写体となる料理に、いわゆる“映える”ものを求める。食事の歴史に、写真撮影という作業が組み込まれ、食事における第六感が誕生した。もはや空腹感さえ、身体感覚ではなくスマホによって発現するようになってしまったかのようだ。


ともあれ魯山人が怠ることのなかった料理の見た目への配慮は、今を生きる私たちが強く意識するようになった。スマホは気がつけば、現代の“小さな魯山人”を生み出す装置になっていた。


まぁ私なんかは、自炊した料理を皿に盛り付けるとき、「見てあの煮物、あんなに似合わない服を着させられて、恥ずかしくないのかしら」などと、表参道のカフェで出てくるおしゃれ飯たちに囁かれはしないかと、気が気でない。だから、私は一体誰に恐れを抱いているというのだ。