イナセナナナメヨミ。

毎日の生活でふと思い浮かんだことを書き綴るものです。徒然草を100倍希釈したものだと思っていただければ。

振袖決起集会

1月になると、街中でゲリラ的に振袖の集団に出会うことがある。まぁ、毎年の成人の日は決まっているので、ゲリラというより予告犯に近いのだが。

 

私は成人式に出たことがない。20歳になるまでに、何度か引越しをした地理的不利もあるが、出席の必要性を感じなかったことが一番の理由である。

 

「あなたは今日から新成人です。大人として責任ある行動をとりましょう」などというお言葉を、よく知らない古株成人から頂いたところでちっとも嬉しくない。

 

むしろ電車の切符などは、中学生から大人料金を払わされているのだから、私の中の大人バージンはとっくに捨て去られている。

 

20歳になったからといって「今日から大人です」と言われて、「分かりました」と切り替えられるわけがない。「あなたは今日から魚です」と言われて「分かりました」と納得する人がいないように、私にとって大人とはそれほど遠い存在であり、カフカの変身よろしく、まさか自分がなってしまうとは想像もしなかった。

 

まず「おとな」という響きの得体の知れなさだ。普通の教育を受けていたら、人を「な」あるいは「とな」とは読まない。

子供は訓読みなので、フェアである。しかし、大人は一体何読みなのかわからない。重箱読みでも、湯桶読みでもない。「おとな」の読みはどこから来ているのだろうか。この辺りからすでに得体が知れない。

 

次に「大人」という期間の長さへの不安である。人生100年時代といわれる今、20歳から大人という区切りはいささか早いように思う。日本の年号でも、数十年続くものは滅多にない。明治以前など、10年かそこらがいいとこである。そんな短い期間でも、存続させるのに多大な労力が必要なのに、80年という長い期間、自分が大人時代をきちんと盛り上げられる自信がない。

 

閑話休題。今では、成人式を欠席したことを少し後悔している。人生一度きりのチャンスを逃したせいか、いまだに自分が大人であるという自覚がない。あのタイミングこそが、子供から大人へと変わる大切な通過儀礼だったのかもしれない。

 

きっと、出席者だけにこっそり「大人のなり方」が教えられていたに違いない、と毎年1月になると、私にとって謎に満ちた集会に思いを馳せるなどしている。