イナセナナナメヨミ。

毎日の生活でふと思い浮かんだことを書き綴るものです。徒然草を100倍希釈したものだと思っていただければ。

ビニール傘と向き合い大人を実感する


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天気予報を全くと言っていいほど見ないので、急な雨に降られることが多々ある。

惰性でカバンに折り畳み傘を入れ続けているせいで大概の場合なんとかなるが、止むを得ずビニール傘を買うこともある。


ところで、そんなビニール傘と私の関係は、歳を経るごとに、一周回って全く異なるものとなった。雨の日は一周どころか何周もクルクルと回っている。


かつては、道に捨てられてたゴミの代表選手。だが歳を重ねたいま、不思議とビニール傘を使うことに一つのステータスを感じている。さながら、おしゃれ上級者が抜け感を演出する、敢えてのビ二ール傘、といったような。

そのチープさには愛着まで感じており、どこの馬の骨とも知らない傘置き場にはおいそれと置けもしない。長く使うと、どことなく自分の手にピッタリと合ってくるような気さえする。


似たようなことを、柿ピーを食べていたときにもふと感じた。それは、柿ピーのピーナッツまで美味しく食べられるようになったこと。子供の頃は、柿の種だけで充分、と何度思ったことか。だが、ある日を境に、ピーナッツの存在をありがたく思う自分がいた。ピーナッツあってこその柿の種、柿の種あってこそのピーナッツ。


恥ずかしげもなく、柿の種だけあればいいのに!なんて不満を漏らしていた幼い私。もし過去に戻ることがあったら、余すことなくその口にピーナッツを詰め込んでやろうと思う。


子供は、一方的な構図に何ら疑問を持たないし、むしろ恥ずかしげもなくそれを好む。ヒーローはカッコいい!と憧れ、ビニール傘はダサい!と叫び、ピーナッツは不要だ!と決めつける。


人が大人になるタイミングは、身体の成長というよりも精神の成熟に負うところが多い。ビニ傘も柿ピーもそうだが、そのバランスを美と捉えられるようになることこそ、成熟の標べと言えそうだ。

スローなブスにしてくれ

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美人が満員電車から降りてくる姿を想像できない。狭い空間に顔を歪ませ必死になる姿を想像できない。


目の前を颯爽と歩く、後ろ姿から美人な雰囲気を醸し出す人。かつては、無理やりに追い抜いて、チラとそのご尊顔を拝そうと試みていた青二才な自分がいた。だが、後悔先に立たず。多くの場合は、文字通り、僕の後ろに後悔が歩いていた。


後ろ姿美人とはそれだけで一つの美人のジャンルである。後ろ姿美人の最大の魅力は、その顔が見えないことだ。想像を掻き立てる後ろ姿がただそこにあるだけで良い。振り返ってしまうと興ざめである。勝手に期待値を上げていて失礼な話なのだが。


全貌が見えない状態は人の心を動かす。昔から、美人は3日で飽きるというが、その実態がわからない美人に飽きは来るのだろうか。答えは否。日々千変万化し、あるいはこんな顔で、あるいはこんなふうに笑うというように、後ろ姿美人には無限の想像可能性が広がっている。


菱川師宣見返り美人図はそんなに美人なのか問題は誰もが抱くと思うが、あれは巧妙にそんな人の心理を突いている。それは、能の面のようでもある。能の神秘性は、面を用いることで、イメージの塗り替えが可能な顔の状態を保っているところにある。人は自分が見たいようにモノを見る。自らの眼差しを経由してモノを形作っている。


見えない美。それはたしかに存在する。ならばせめて、その刹那的幸福が少しでも長く続くように、ゆっくりと振り向いておくれ。

満員電車でハラキリを。

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東京の通勤風景は今日も変わらず、来る電車来る電車に、大量の人が詰め込まれている。


そんな満員電車に時折、誰も座らない不思議な空間が現れる。乗り込む時には、人を押しのけてでも確保せんとするその場所が、今目の前で空いているというのに。


車内の限られたスペースは有効活用すべきだし、誰かが、ひいては自分が座りたい、何度そう思ったことか。でも、我先に動くのは何故だか少し気がひけ、それは周囲の人たちも同じで、互いを牽制しているように感じる。


誰もが空席を認識をしているのに、座らない。あのもどかしさはなぜ生まれるのだろう。それはちょうど、小学生の頃に、黒板の誤字に気づき、生徒の誰もが先生に指摘するかヤキモキする、あの感じに似ている。


通勤電車では、乗車と座席争奪戦が一連の形式美であるかのように、すし詰め状態を崩すことに人々は抵抗を見せる。


自分の領地を奪取できなかった哀れな立ち人は、電車に、いや戦に乗り込んだ瞬間から負け組となる。電車に乗り込むタイミングで席を得られなければ、座席争奪戦への参加権すら失われてしまう。


さすがは侍の国。かつて切腹が文化として根付いていただけはある。江戸時代には、切腹がトレンド入りしていたそうだ。#切腹、が最後の投稿となる侍が後をたたなかった。#写真好きの人と繋がりたい、なんて悠長なことを抜かしている場合ではない。恐ろしい流行である。


ともあれ、満員電車において立ち続けることは切腹と同じなのではないだろうか。途中で空いた席にはおいそれと座らない。負け戦におめおめと同情は受けない。自分が犯した失態は甘んじて受け入れる。そこで座ってしまっては、矜持を捨て、自らを辱めるのと同じだ。


たとえ座れずとも、最後まで人としてありたい。満員電車が運んでいるのは、そんな尊く何ものにも変えがたい想いだ。今日も東京の、日本の通勤電車では、自らの尊厳のために戦う人で溢れている。

残高シェイム

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ICカードの利用が当たり前になって久しい。切符を買う手間が省け、電車やバスの乗降がとてもスムーズになり、まさに文明の利器といって遜色ない代物である。


自動改札には、ICカードをかざすと残高を表示する機能が備わっている。開発者にしてみれば、電車を利用する際に残高確認ができる便利機能のつもりなのだろう。だが、この表示の切り替わりが絶妙なタイミングで、人が多い時などは、自分の前の人のチャージ残高が見えてしまうことがある。これはどことなくありがた迷惑だ。


自分の表示残高がわずか数十円だったりすると、いい大人なのにジュース一本もまともに買えない金額しかありませんよ、と指摘されているようで、少し気恥ずかしい。


ましてそれが、自分の後ろに続く人に見られるわけなので、その「なんだかちょっと恥ずかしい」を絶妙に狙い撃ちされている気分である。たとえば同じ残高でも、銀行口座などは誰かに見られて嬉しいものでもないだろう。


私たちは日々、ICカードをタッチした時のピッという音と同時に、人に知られたくない、ちょっとした秘密を強制的に暴露されているのだ。


誰もが振り返るイケメンが目の前を歩いている。まぁ!なんて素敵なのかしら!ピッ。「高校生までお母さんと一緒に寝ていた」


とても綺麗なお姉さんが目の前を歩いている。どうにかしてお近づきになれないだろうか。ピッ。「足し算がおぼつかない」


皆、何食わぬ顔を装い、颯爽と歩いていくが、立つ鳥よりも跡を濁しながら、一点の恥を置いていく。心なしかその後ろ姿は、周りの人達の目から己を守るように、どこか凛としている、ような気がする。


目撃した人にとってみれば、幻滅もするだろうが、それを楽しむ心の余裕も持ちたいものだ。例えば、好きな人がくしゃみをして変な顔になっているところをうっかり目撃してしまった時の、なんとなくがっかりするような、少し愉快なような、あの感じに似ていなくもない。


だが、これがチャージ限度額いっぱいまで入ったカードであると話は別で、私は前を行く赤の他人に畏敬の念を抱いたりする。なんとなくボサっとしたおじさんが、ピッという音の後は、どこぞの社長か、とても優秀な人に見えてくるから不思議だ。男は背中で語り、出来る人は残高表示で語るのである。


いつか私も、限度額いっぱいまでチャージしたICカードをかざして、後ろを歩む人達から尊敬の眼差しを集める大人物になりたいものだ。