イナセナナナメヨミ。

毎日の生活でふと思い浮かんだことを書き綴るものです。徒然草を100倍希釈したものだと思っていただければ。

スローなブスにしてくれ

f:id:tsabolibi:20190906190530j:plain


美人が満員電車から降りてくる姿を想像できない。狭い空間に顔を歪ませ必死になる姿を想像できない。


目の前を颯爽と歩く、後ろ姿から美人な雰囲気を醸し出す人。かつては、無理やりに追い抜いて、チラとそのご尊顔を拝そうと試みていた青二才な自分がいた。だが、後悔先に立たず。多くの場合は、文字通り、僕の後ろに後悔が歩いていた。


後ろ姿美人とはそれだけで一つの美人のジャンルである。後ろ姿美人の最大の魅力は、その顔が見えないことだ。想像を掻き立てる後ろ姿がただそこにあるだけで良い。振り返ってしまうと興ざめである。勝手に期待値を上げていて失礼な話なのだが。


全貌が見えない状態は人の心を動かす。昔から、美人は3日で飽きるというが、その実態がわからない美人に飽きは来るのだろうか。答えは否。日々千変万化し、あるいはこんな顔で、あるいはこんなふうに笑うというように、後ろ姿美人には無限の想像可能性が広がっている。


菱川師宣見返り美人図はそんなに美人なのか問題は誰もが抱くと思うが、あれは巧妙にそんな人の心理を突いている。それは、能の面のようでもある。能の神秘性は、面を用いることで、イメージの塗り替えが可能な顔の状態を保っているところにある。人は自分が見たいようにモノを見る。自らの眼差しを経由してモノを形作っている。


見えない美。それはたしかに存在する。ならばせめて、その刹那的幸福が少しでも長く続くように、ゆっくりと振り向いておくれ。

満員電車でハラキリを。

f:id:tsabolibi:20190507094939j:plain


東京の通勤風景は今日も変わらず、来る電車来る電車に、大量の人が詰め込まれている。


そんな満員電車に時折、誰も座らない不思議な空間が現れる。乗り込む時には、人を押しのけてでも確保せんとするその場所が、今目の前で空いているというのに。


車内の限られたスペースは有効活用すべきだし、誰かが、ひいては自分が座りたい、何度そう思ったことか。でも、我先に動くのは何故だか少し気がひけ、それは周囲の人たちも同じで、互いを牽制しているように感じる。


誰もが空席を認識をしているのに、座らない。あのもどかしさはなぜ生まれるのだろう。それはちょうど、小学生の頃に、黒板の誤字に気づき、生徒の誰もが先生に指摘するかヤキモキする、あの感じに似ている。


通勤電車では、乗車と座席争奪戦が一連の形式美であるかのように、すし詰め状態を崩すことに人々は抵抗を見せる。


自分の領地を奪取できなかった哀れな立ち人は、電車に、いや戦に乗り込んだ瞬間から負け組となる。電車に乗り込むタイミングで席を得られなければ、座席争奪戦への参加権すら失われてしまう。


さすがは侍の国。かつて切腹が文化として根付いていただけはある。江戸時代には、切腹がトレンド入りしていたそうだ。#切腹、が最後の投稿となる侍が後をたたなかった。#写真好きの人と繋がりたい、なんて悠長なことを抜かしている場合ではない。恐ろしい流行である。


ともあれ、満員電車において立ち続けることは切腹と同じなのではないだろうか。途中で空いた席にはおいそれと座らない。負け戦におめおめと同情は受けない。自分が犯した失態は甘んじて受け入れる。そこで座ってしまっては、矜持を捨て、自らを辱めるのと同じだ。


たとえ座れずとも、最後まで人としてありたい。満員電車が運んでいるのは、そんな尊く何ものにも変えがたい想いだ。今日も東京の、日本の通勤電車では、自らの尊厳のために戦う人で溢れている。

残高シェイム

f:id:tsabolibi:20190327085853p:plain


ICカードの利用が当たり前になって久しい。切符を買う手間が省け、電車やバスの乗降がとてもスムーズになり、まさに文明の利器といって遜色ない代物である。


自動改札には、ICカードをかざすと残高を表示する機能が備わっている。開発者にしてみれば、電車を利用する際に残高確認ができる便利機能のつもりなのだろう。だが、この表示の切り替わりが絶妙なタイミングで、人が多い時などは、自分の前の人のチャージ残高が見えてしまうことがある。これはどことなくありがた迷惑だ。


自分の表示残高がわずか数十円だったりすると、いい大人なのにジュース一本もまともに買えない金額しかありませんよ、と指摘されているようで、少し気恥ずかしい。


ましてそれが、自分の後ろに続く人に見られるわけなので、その「なんだかちょっと恥ずかしい」を絶妙に狙い撃ちされている気分である。たとえば同じ残高でも、銀行口座などは誰かに見られて嬉しいものでもないだろう。


私たちは日々、ICカードをタッチした時のピッという音と同時に、人に知られたくない、ちょっとした秘密を強制的に暴露されているのだ。


誰もが振り返るイケメンが目の前を歩いている。まぁ!なんて素敵なのかしら!ピッ。「高校生までお母さんと一緒に寝ていた」


とても綺麗なお姉さんが目の前を歩いている。どうにかしてお近づきになれないだろうか。ピッ。「足し算がおぼつかない」


皆、何食わぬ顔を装い、颯爽と歩いていくが、立つ鳥よりも跡を濁しながら、一点の恥を置いていく。心なしかその後ろ姿は、周りの人達の目から己を守るように、どこか凛としている、ような気がする。


目撃した人にとってみれば、幻滅もするだろうが、それを楽しむ心の余裕も持ちたいものだ。例えば、好きな人がくしゃみをして変な顔になっているところをうっかり目撃してしまった時の、なんとなくがっかりするような、少し愉快なような、あの感じに似ていなくもない。


だが、これがチャージ限度額いっぱいまで入ったカードであると話は別で、私は前を行く赤の他人に畏敬の念を抱いたりする。なんとなくボサっとしたおじさんが、ピッという音の後は、どこぞの社長か、とても優秀な人に見えてくるから不思議だ。男は背中で語り、出来る人は残高表示で語るのである。


いつか私も、限度額いっぱいまでチャージしたICカードをかざして、後ろを歩む人達から尊敬の眼差しを集める大人物になりたいものだ。

ならいっそ全裸の料理を。

f:id:tsabolibi:20190304100133j:plainどんなに美味い料理でも、乱雑に盛られては美味そうに見えない。でもたまに、この盛り付けは正しいのか?と思うこともある。どでかい皿の隅っこにちょこんと載った食材はどことなく居心地が悪そうに見えてしまう。電車に乗る時、真ん中でなく何となく端っこの席に座ってしまう私だが、一体誰に気を使ってるんだ?という感覚になる。それに近い。


「食器は料理のきもの」かの北大路魯山人がこう考えたのは、美味しい料理を食べるため、これに尽きる。「食は見た目から」と言うように、切っても切れないのが、料理と食器の関係である。自分を良く見せるために衣服をまとうのは、人間だけではないようだ。


似合う服、似合わない服があるように、料理にも似合う皿、似合わない皿がある。高級料亭へ行き、料理が全てIKEAの皿で出てきたら、いくら北欧好きのおしゃれガールでも興ざめというものだ。


もちろん料理の美味しさを決めるのは見た目以外にもいくつかある。やはりラーメンなどはズズズッと頬張りたい。音を立てないよう静かに食べたのではせっかくのラーメンが台無しである。だが近頃は、身体感覚の中でも視覚への権威づけが著しい。


最近では、出てきた料理に、箸ではなくスマホを向ける人が本当に多くなった。女性嗜好のお店であればなおさらだ。彼女たちは食事はもちろんだが、撮影目的で来店しているといっても過言ではない。むしろ写真だけとれれば満腹になるのではないか。さすがにそれは過言か。何にせよ、食事を収めるのがお腹の中とスマホの中になったのは現代の特徴である。


被写体となる料理に、いわゆる“映える”ものを求める。食事の歴史に、写真撮影という作業が組み込まれ、食事における第六感が誕生した。もはや空腹感さえ、身体感覚ではなくスマホによって発現するようになってしまったかのようだ。


ともあれ魯山人が怠ることのなかった料理の見た目への配慮は、今を生きる私たちが強く意識するようになった。スマホは気がつけば、現代の“小さな魯山人”を生み出す装置になっていた。


まぁ私なんかは、自炊した料理を皿に盛り付けるとき、「見てあの煮物、あんなに似合わない服を着させられて、恥ずかしくないのかしら」などと、表参道のカフェで出てくるおしゃれ飯たちに囁かれはしないかと、気が気でない。だから、私は一体誰に恐れを抱いているというのだ。